昨日は入学式が行われ、改めて新しい年度が始まったんだなぁという気がしました。が、今年度限りで閉校となってしまいます。来年の春は新しい校舎に町内4つの中学校が統合されることになっているのです。
入学式の前日までは、新年度を迎えることばかりでさほど感じなかったのですが、入学式を終えてみたら、あぁこれも最後の行事だったんだ、この看板はもう使わないんだ‥‥と、始まりなのに終わりのような感覚がふっと湧き出る瞬間がありました。
「おわり」という言葉はあまり使いたくないのですが、でも現実は確かに「おわり」の年度であり、その「はじまり」である最初のステップが入学式だったんだなぁと、しみじみしている次第です。
もちろんこれで終わりだなんて思っているわけではありません。ラストを飾るべくすばらしい花を咲かせなくちゃならないのだし、その花や種を新しい学校に持ち寄って更に‥‥という思いがみんなの胸に去来していることは間違いありません。
今年度はどうしようか、課題もあるし少し検討しながら‥‥と、これまでの感覚で協議をしたりするのですが、それが来年度にどうつながっていくのかなどを考えると、あぁここでベストの答えを出していかないと意味がないんだと、少々切羽詰まったものも感じたりします。たった1週間しか過ぎていないのに‥‥。
大震災から1年が過ぎましたが、自分が一番望んだのは普通の生活でした。歴史的な・特別な状況だからどうのこうのではなくて、そういう場面であっても今までどおりの日々を送ることがやっぱり大切なんだと感じたんです。たぶんみんなそういう思いだったんじゃないかな。だからこの1年間もこれまでと同じように過ごしてほしいなぁとも思うんです。そのための仕事をしていかなくちゃならない。
普通の学校生活を送る中でその稀な事情をうまく使いながら、ひとり一人が特別な1年間に仕上げていく、まぁそんな感じ。
そういう意味では「おわり」は決して淋しい・悲しい、ネガティブなものではなくて、「はじまり」のためのステップなんだろうね。そう、前に進む以上は、いつどんなときでも、何でも、全てがどんどん終わっているんですね。それによって成長していくのでしょう。
一方で「おわり」はないようにも思います。それは自分の目標とするゴールかも知れませんが、そこにたどり着いてもまた次の「おわり」を定めるのです。その瞬間が「はじまり」なんだろうね。
1週間ぶりのウォーキングでした。数日前の爆弾低気圧がもたらした嵐の爪痕が森の中にもたくさんありました。折れた枝がたくさん落ちています。不要な枯れ枝がなくなり強い枝だけが残るんですね。そうして1本1本がたくましく育っていく。
根元から折れてしまった木も少なくありません。なかなか根付かない運営システムなどはこうして淘汰されていくのかも知れません。
おわりのはじまり、はじまりのためのおわり。常に何かが終わっていきます。と同時に何かが始まっているのですね。
梅もまだボチボチなのですが、高乾院の裏にある早咲きの桜がちらほらと‥‥。
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