霊というものをあまり信じていませんでした。具象化されないから信じない‥‥という何か頑ななものでもないのですが、まぁ考えたこともなかったのです。
しかし、命がなくなれば「はいそれまでよ」と、その瞬間きれいさっぱり忘れるのかと言われればそうではなくて、むしろ人一倍「今頃どうしているものか」と、ふと懐かしいあの頃を思い出してみたり、元気な頃の顔を思い浮かべて当時を偲んだり、そういうことは少なくないような気もします。
そう思うと、何だかまだそばにいるような、どこかで見てくれているような、もっと言えばいつでも会えるような、そんな気がするもので、そういう心の中の思いこそが「霊」というものなのかなと、ここ数日そんなことを考えていました。
命ということも考えました。命はたぶん一定量しかないのでしょう。人も動物も植物も含めて一定量しか。その命が絶えることによって、また新しい命がどこかで生まれてくるのではないかと。つらいけれどすばらしい営みであるとも思います。
食物連鎖と言いますが、生物も含めた自然はその絶妙なバランスで保たれてきました。しかし人間は人間の命のために、バランスを考えずに動物や植物の命を奪って命をつないできました。さらに今は、自らのためだけに同じ人間の命まで奪ってしまっています。命という永遠に続く歴史の中では実にちっぽけな期間なのですが、今はそういう時代なのでしょう。
それでも絶えた命によってまた新しい命が生まれます。そこからまた新しい命の歴史が始まるのですから、死は終わりではなくて新しい旅立ちの時なんでしょうね。あぁ、こういうことを輪廻転生と言うのか‥‥。
お通夜の最後に、お坊さんの説法がありました。「会者定離、愛別離苦、そこを乗り越えることが‥‥」という内容で、こうした機会には定番と言えば定番の話なのかもしれませんが、何かこうわかりやすかったというか、ありがとうございますと、そんな気持ちにもなりました。
自分は信仰心が厚いわけでなく、どちらかと言えば無宗教に近く、宝くじを買ったときだけ「神様仏様‥‥」と無理なお願いをするというノーテンキな人間です。たぶん今後も変わらないでしょう。
ここ数日いろんなことをボーッと考えて思ったのは、結局のところ人としてしっかりと生きることができるかどうか、それに尽きるのかなということ。でもとても難しいことではありますね‥‥。自分のここまでの半生は‥‥何ともお恥ずかしい限りです。この先どこまで生きることができるかどうかわかりませんが、その分をカバーできるとはとても思えませんし、むしろもっと怠惰に生きていくだろうと思います。
そういう中で、家族や友人や職場の方々、仕事の仲間に助けられ・助け、そうやってお互いに関わり合いながら、その時々に自分のできる範囲でできることをやっていく、そんな単純なことでいいんじゃないかと、そんなふうに思いました。
親しい方とは言え、特別な親交のあった方ではないのですが、何かとても別れが悲しく感じたのです。理由はそれだけではないのですがテンションが下がってしまい、でもそのおかげで生きていくことの大切さも再認識させられたような気もします。マリーゴールドの花言葉は「悲しい別れ」だそうです。でも「生きる」という言葉もあるそうです。
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