昨日も書きましたけど、秋分の頃から一気に涼しくなりました。朝夕はもう「寒い」と言った方がいいくらいですよね。
暦の上では、秋の始まりは「立秋」。そこから半月ほど経つと暑さも落ち着く「処暑」になります。「処」は落ち着くという意味があります。さらに半月、秋になって一カ月も経てばだいぶ涼しくなって草花には朝露も見られます。この頃を「白露」って言います。そんな風景が目に浮かぶようです。そして「秋分」を迎えるわけですが、字のとおりちょうど秋の真ん中あたり。昼と夜の長さが同じくらいの時期でもあり、これ以降は秋がどんどん深まるわけです。白露から一カ月ほど経つとかなり冷え込むようになりますが、その頃を「寒露」と言います。そして立秋から二カ月半、いよいよ霜も降りるようになる「霜降」を迎え、おおむね三カ月間の秋が終わるわけです。暦の上ではね。
日本は四季がはっきりしていると言われますが、自分の住む地域、と言っても狭い範囲ではありますが、そこを歩いて風景や草花などを写真に収めるようになってから、季節の移ろいというものを強く感じるようになり、四季よりも細かい二十四節気というものがものすごく身近なものになりました。
三カ月サイクルの春夏秋冬も悪くはないのですが、それらをさらに6つずつに分けるくらい、つまり半月ごとに季節を感じる、味わうことって、今の時代に何とも風流だし自然の恵みで生活を計画的に考えられるすばらしい方法だと思うのです。
二十四節気はもともと太陰暦の時代に中国で考案されたものというのはだいたい知られていると思います。黄河文明の頃ですから黄河流域の大陸的な気候のことであり、日本の気候とはちょっとずれていると感じるわけですね。
それでも、日本人はずっとそんな季節感を肌で感じてきました。今になってちょっとずれてんじゃね?と感じるようになったのではなくて、そのずれも含めて季節と生活とを結びつけて生きてきたわけです。日本人の奥ゆかしさというのはそうしたずれを受け入れながら生活や考え方に幅をもって対処することなのかもしれません。そういう文化、感覚こそきちんと残していきたいものだと思ったりするわけです。
そもそも季節の変わり目なんて誰にも見えないのです。今日から夏ですよ、明日から秋ですよというものではなくて、夏らしく、秋らしくなってきたと感じるのが季節ですよね。二十四節気も同じで、寒露はこの日からこの日までというものではなくて、だいたい10月9日頃から半月くらいの間というものです。アバウトだから容認できるんだと思います。
そんな二十四節気だから、時候のあいさつにもそのまま使えます。秋分の候となりましたがお変わりございませんか。寒露の季節を迎えいかがお過ごしですか。こんな便利なものは他にありません。もちろんその季節らしい言葉だってかまいません。秋が深まり冷えてくる頃なら「秋冷の季節」、紅葉がきれいなら「錦秋の候」、「晩秋」もいいですね。季節を表す言葉はたくさんあるんですね。
それはそれでいい。でも二十四節気は二十四節気でいいと思うんだ。暦の上では‥‥、それでいいと思うんです。
暦の上では‥‥って、間違った場合でも暦のせいにできるんですよね。その季節らしくない天候であっても、「暦の上では秋ですがまだまだ厳しい暑さが続きます」って言えば丸く収まるし、本来はもう秋になる頃なんだと逆に気づくこともできるんですよね。
あぁそれなのにそれなのに、日本気象協会ってとこは「日本版二十四節気」作りなんかに取り組んでいたんだってね。なじみが薄い、日本の気候に合わない、誰にでも分かるように、それは無理だと思いますね。
日本版ができたからって日本人に馴染んで使うようになるとは思わない。日本の気候に合わないのは昔からわかっていてそのずれも含めて生活してきている。桜前線でわかるように、この狭い日本でさえ季節はぜんぜん違う。違うから許容できていると自分は思う。そして誰にでもわかるようにって、たぶん言わんとしているのは若者だと思うんですが、その若者に二十四節気の意味や日本文化との関わりなどを教えていくべきで、それは日本版ができても同じことだと思うのです。「日本版二十四節気」なんか全く必要ない。
と思ったら、やっぱり反発の声がだいぶ多いと見えて、「季節のことば」を編成して定着させる程度に方針転換だそうです。やっぱりね。
何でもかんでもピッタリ合ってなくたっていいと思うんです。ゆるいからこそ馴染むものも少なくありません。ゆるいからこそ便利なんです。暦の上では‥‥そのギャップが生活や文化を豊かにしてきたんだと思うんだなぁ。もちろんこれからも。
「暦の上では」では、とりあえずすてきな「季節のことば」が集まることを願うばかりです‥‥。
じじいの話は長いなぁ‥‥。すまんすまん。
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